発明のコツの次は、お話しを「のりかえ便利マップ」開発に戻します。
その当時256駅あった地下鉄の全駅を5カ月かけて調べた私は、それを企画書にして本できないか?と思い、出版社に送りました。その中で3社から話を聞いてもいいという話があり、商談に入りました。
結局、学生援護会さんというアルバイト雑誌「An」で、バイト面接のために「今週は千代断線沿線の仕事」「日比谷線沿線の仕事」という特集ページに駅の案内をつける、ということで、半年間で20万円で採用してもらい、2回目の採用実績となりました。
最後は連絡がつかなくなってしまい、
「幾らほしいの?」
「ただでもいいので世に出して下さい」
「じゃ20万でいい?」
と言われたのを今でも覚えています。
最初の本が本屋に並んだ時は、手に取って泣きました!そのくらい嬉しかったのを覚えています。生まれてからベスト3に入るくらい嬉しかったです。
なにしろ5か月間の駅の調査というのが、当初自分が想像していた以上に大変な作業だったからです。
その後、20万くらいじゃわりに合わないと思った私は、事前に企画書を企業に送るのも面倒になり、直接飛び込みで営業をかけ始めていました。
学生援護会さんの実績をもって次に行ったのが「ぴあ」さんです。
そこで言われたのが「ほしいのは車両のところだけですが、もうリクルートのお花見マップであります」といわれました。ただそのお花見マップがとても見にくかったので、
「これよりもっと見やすいものを考えたら、また会っていただけますか?」
と聞くと、会ってくれるというので、宿題をもらって、見やすいデザインを考えました。
それでできたのが、今ののりかえ便利マップの原型である、横軸に車両数、縦軸に駅をとった方眼紙タイプの表記です。
そして小型サイズの「ぴあマップ東京」からスタートし、名古屋、大阪と次々とエリアを拡大していきました。
その後、学生援護会の編集長から、その後の運命を変えるアドバイスをいただきます。
「福井さんのアイデアは発明品じゃないよ。これは情報だよ。情報はね、回転させて膨らませて、切り口を変えて展開するの。僕たちマスコミがやっているのはそういうこと。だから福井さんも切り口を変えて展開した方がいいよ」
それまで私は、本にするという頭しかありませんでしたが、初めて「本じゃなくていいんだ!」ということに気づきます。
次に私はこれをソフトにできないか?とソフトウェアの会社に売り込みを開始します。
そしてパイオニアの子会社であるインクリメントPという会社で「駅らく極楽」というソフトにしてもらいます。
その次に手帳にしてもらおうと思い、手帳会社に売り込み、JMAM日本能率協会さんで、システム手帳の中のコンテンツにしてもらいます。
その時に、JMAMさんに個人とは取引ができないので、会社にしほしいという依頼を受け、会社にしたのが、前身の有限会社アイデアママです。
それまでは、発明のロイヤリティで月30万コンスタントに稼げるようになろう、というのが目標だったため、会社にすることは全然考えていませんでした。
まして、子供が4歳と1歳で、まだまだ手がかかる頃でしたので、悩みましたが、せっかくのチャンスだからと1年やって芽が出なかったらやめる、という約束で、自分の貯金の300万と母から借りた300万を元手に、自宅の2階でアルバイトの電話番の女の子を一人雇い、起業しました。
日本テレビの「未来創造堂」で、私の役をいとうまい子さんが演じてドラマ化されたあたりです。当社のきっかけですので、まだ見ていない人は是非、見て下さい。
その後、念願だった営団地下鉄、今の東京メトロに採用され「のりかえ便利マップ」は一気に全国区になり、たくさんの取材が一斉にくるようになります。
「どうせ、こんなのすぐにマネされちゃうだろう」のりかえ便利マップを最初に考えた時にまず、そう思いました。
マネされてもいいようにするにはどうしたらいいか?をずっと考えて、人間はラーメンでもカレーでも一番、食べなれている味が一番おいしいと感じる。それなら、のりかえ便利マップも毎日見慣れているものが一番、見やすく感じるんじゃないか?と思い、それならば本家本元の鉄道会社に採用してもらおうと思い、東京メトロと都営地下鉄にはずっと売り込みを続けていました。
「あんた鉄子さん?」最初に広報の人に言われました。そしてこういうのを作ると特定の車両が混んでしまうので、わざとつくらないんだと断られました。
ただ、どうせマネされるのであれば、本家本元に採用してもらうことは、最も重要事項だと思っていた私は手を変え、部署を変え、採用実績をもって、定期的に売り込みを続け、地下鉄は2年、JRは3年かかって、やっと採用してもらいました。
最初、銀座線だけでもテスト的にとスタートしたのりかえ便利マップは、とても便利ということで、その後、千代田線と丸ノ内線に広がり、都営地下鉄が先駆けて全線採用されたことにより、全ての地下鉄の駅に貼りだされます。
その頃、朝日新聞で「エジソン生誕150周年」という特集があり、その中で初めて写真入りで紹介され、家族や近所の人に初めて自分のやっていることを打ち明けられました。
それまでは、何をやっているのか?も怪しすぎて人に言えなかった、いわば日陰の身でしたが、朝日新聞のエジソン生誕の特集記事が、初めて自分のやってきたことに自信を持たせてくれました。この時も、夕刊だったのですが、新聞の集配所の前で待っていて、まだですか?と何度もせかして、記事を読んでお店の前でワンワン泣いたのを覚えています。
親切な集配所の人も記事を読んで、「良かったですね」と言ってくれましたっけ。。
とにかくこの頃は、毎日苦しくて、泣いてばかりいました。
失敗ばかりで、帰りの電車の中で泣きながら帰ってきていたのもこの頃です。
まだ株式会社になる前の、ナビットの黎明期のお話しです。
※次は「発明家と起業家の違い ~アイデアママから(株)ナビットへ~」です。