当社ナビットは1997年、前身の㈲アイデアママからスタートし、2001年に株式会社ナビットとしてスタートしました。

最初のスタートは皆さんもよくご存知の「地下鉄のりかえ便利マップ」です。

当時、子育てをしながら、発明に凝っていた私の5つ目の発明品です。

最初に有限会社を自宅の2階で起業したのは、若干31歳、長女が4歳、長男が1歳の時でした。
まだ乳飲み子を抱えての起業物語は、今から考えるとかなり無謀でしたが、その当時はとにかく若く、世間知らずゆえの怖いもの知らずで、せっかくのチャンスなので、1年やってダメだったらやめる、という約束で、電話番のバイトを一人雇い、自宅の2階で起業しました。

その当時は、まさか起業して、こんなに大きく発展するとは夢にも思っていませんでした!

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「発明はじめて物語~毒ガスマスクみたい。特許とってみたら?~」

下の子が生まれたばかりの時、お姉ちゃんの保育園のPTAにつれて行った時、泣いてしまって他のお母さんに迷惑をかけてしまい、おしゃぶりをすると泣きやむんですが、まだ小さいからすぐに落としてしまいます。そこでおしゃぶりの左右の空気穴にゴムを通して耳にかける、というのをやったところ、他のお母さんが、「福井さん、毒ガスマスクみたいね!面白いから特許とってみたら?」と言われました。

毒ガスマスクというのは、ちょうどオウム真理教が世の中を騒がせていた時期だからです。

それが「特許」という言葉と初めて出会ったきっかけでした。

その後、本屋で特許関係の本をみつけました。そこには「町の発明家を応援している発明学会という団体が新宿にある」と書いてあり、早速入会しました。その後、自分で特許を出す「発明事業化セミナー」という通信教育を5か月間自宅で受講し、自分のアイデアを売り込み始めました。

その頃、4つのアイデアがあり、受講を終えた私は、早速4つのアイデアを順番に企業に売り込みを始めました。

1つ目が「左右を間違えない靴」です。

その頃、3歳のお姉ちゃんがいつも家の中と外を行ったり来たりしていたのですが、いつも靴の左右を間違えてはいていました。
そこで親指と人差し指の間に、ビーチサンダルの底の部分をカッターで三角に切り、アロンアルファで貼って、間違えてはいたら違和感があるような靴を考えました。

それを写真に撮り、簡単な企画書とファックス返信用紙をつけて、靴の製造メーカーに売り込みました。靴のメーカーはその頃、帝国年鑑という分厚い本が図書館にあり、74社あり、一斉に売り込みました!

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結果は、惨敗でした。

理由はほとんどが、もうその特許はとっくにあります、というものでした。
その頃、発明学会では「先願調査」(せんがんちょうさ)は不要なので、企画書に「特許出願中」と書いて企業に売り込みなさい、とありましたので、先願調査をしていませんでした。
特許は申請から半年間はオープンにされません。特許を出願するには、自分で申請しても印紙が38000円かかるため、実際に採用してくれる会社があるかどうか?を確認してから、特許申請しないと印紙代がもったいないというのが理由でした。

私のアイデアは「外反母趾(がいはんぼし)」という足の指の病気があり、そのために、明治時代に既に同様の特許が取られており、特許性が全くない、というのがお断りの理由でした。

実際に企画書を書いて、企業に売り込む労力たるやかなり大変で、それも毎日不採用、という通知が全国からくるのはかなり精神的に辛いものでした。

アイデアというのは自分の子供のようなもので、本当に自分では可愛いくてたまらないものです。でもそれを人から毎日否定され続けるのは、かなり辛い経験でした。

これで先願調査の重要性を知った私は、次からは先願調査をして売り込むことにしました。

ただ一点驚いたのは、ちゃんと不採用にしても結果がくることと、花の種とか、タオルとか、お礼のお手紙が全国からたくさん届いたことでした!
例えば、四国の靴工場の社長さんからは、「貴重なアイデアをありがとう!四国に来たら是非工場を案内したいから寄って下さい。」という直筆のお手紙をいただきました。

発明の売り込みなんて相手にされないのではないか?と思っていた私は、企業としてきちんと返答がくることには純粋に驚きました!ただ、不採用は不採用なので、どんなに丁重な扱いをされても、結構めげました。

ちなみに、今では先願調査は特許庁のサイトにいくと、誰でも無料で見ることができますが、その当時はインターネットがまだありませんでしたので、虎ノ門にある特許庁まで調べに行かなくてはならず、一介の主婦だった私にとってはとても敷居が高かったのを覚えています。

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2つ目のアイデアは「あいうえおトランプ」でした。
当時、おねえちゃんが3歳になり、記憶力を高めるには「神経衰弱」がいいと本に書いてあったのですが、まだ数字が読めないのですぐに飽きてしまいます。

そこで「アンパンマン」が2枚とか「どらえもん」が2枚といった、キャラクターが2枚セットのものがあればいいのでは?と思い、色々お店を捜したのですが、ありませんでした。

ならば自分で作ろう!と思い、ちょうどその頃、ひらがなを覚えさせたかった私は「あ」が2枚、「い」が2枚といったひらがなカードを考え、今週は「あ行」、来週は「か行」という感じで、毎週遊ぶことで自然にひらがなが覚えられるようなものにしました。名称は「あいうえおトランプ」としました。一種の知育玩具です。

そして、前の苦い思い出を生かし、今後はしっかり先願調査をしました。そしてラッキーなことに、同じ特許はありませんでした。また、先願調査をした結果、近い内容の特許を申請している企業が何社かあったので、そういった会社も売り込みリストに加えました。また、神経衰弱以外の遊び方も考え、遊び方のマニュアルもセットにして、トランプやかるた、知育玩具などの企業47社に売り込みました。

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結果は「是非、採用したい」という会社が3社あり、静岡県の青島文化研究社という会社で、20万とロイヤリティ5%で契約されました!

これが私の初めての発明品の実用化の実績です。

後から、発明学会の人に話を聞くと、発明の商品化は1000に3つと言われており、発明学会みたいな愛好家の集まりでも可能性は1000に5つと言われました。そういう意味で、2つ目のアイデアで商品化された私はかなりラッキーだったと言えるでしょう。

その後、これですっかり発明に味をしめた私は3つ目の発明品「モーモーおしゃぶり」を売り込みました。これはあっさりNGでした。理由は、その頃おしゃぶりは洗濯バサミがついて、服に止めるというのが既に出回っていて、耳にかけるという発想自体がNGでした。

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次に売り込んだのが「指しゃぶりストップ手袋」赤ちゃん本舗、ピジョンなどの、赤ちゃん商品の会社に売り込みました。

これは是非、採用したいという会社が3社ほどあったのですが、その頃日本に入ってきたPL法が壁になり、結局採用されませんでした。

赤ちゃんの口に入るものだから、ボタンを飲み込んで窒息したらどうするんだ!とか、生地を色々検討しなければならず、生地問屋が集まる西日暮里に買い物にいって調べました。

この時、生地を買いに行ったJR西日暮里の駅でエスカレーターやエレベーターがなくて、ベビーカーを押してホームの端から端まで歩いて、夏の暑い盛りに赤ちゃんがぐったりしてしまったのがきっかけで思いついたのが「のりかえ便利マップ」です。

★★★

当時、発明に凝っていたため、実は全部つながっています。その後、秋になり、おしゃぶりストップ手袋がどうやら厳しそうだと思い、諦めて毎週末に地下鉄の駅調査が始まりました。「のりかえ便利マップ」は5つ目の発明品ということになります。

ここでいったん売り込み編はおしまいで、次は発明学会編へと移ります。

ではでは~(‘◇’)ゞ

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